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六十余州名所図絵 越前 敦賀気比ノ松原

歌川広重(初代)作家解説
1797-1858
ウタガワヒロシゲ(ショダイ)
Hiroshige UTAGAWA Ⅰ

P-295
六十余州名所図絵 越前 敦賀気比ノ松原
ロクジュウヨシュウメイショズエ エチゼン ツルガケヒノマツバラ
英語 Tsuruga Kehinomatsubara, Echizen province, from the series "Picture of Famous Places in Japan"

制作年:江戸時代・嘉永6年
サイズ:33.5×22.3cm
技 法:木版
材 質:紙

昭和56年度 購入

 歌川(安藤)広重の名は、「東海道五十三次」によって良く知られている。東海道の四季折々の変化に雨、雪、月などを交えて描いた画面は、日本的な詩情に溢れており、当時の江戸市民の旅行熱を煽り爆発的な売れ行きを見せた。広重はその後も手を変え、品を変えて東海道ものを発表し続けた。
 広重は寛政9年(1797)江戸の八代洲河岸という所で、火消同心の子として生まれた。幼名を徳太郎といい、小さいころから絵が得意だったという。文化8年(1811)当時の第一人者歌川豊国に入門しようとしたが、門弟多数のため断られ、やっと歌川豊広に入門を許された。
 豊広は美人画と風景画を得意とし、人間的にも穏やかな人で、兄弟弟子にも大物がいなかったので、広重はのびのびと修行に励み、自分の力を伸ばしていった。若いころは美人画に精魂を傾け、作品もかなりの数にのぼっている。
 文政11年(1828)師の豊広が死亡したので、風景画家として独立した。その地位を築いたのは天保2年(1831)ころに発表した「東都名所」であり、鳥観図的な構図に近景、遠景をコントラスト良く配し、鮮やかな色彩で描いている。続いて人気シリーズの「東海道五十三次」を発表した。
 文政年間に十返舎一九が「東海道中膝栗毛」を書き、風景版画では葛飾北斎が「冨嶽三十六景」を出すなどで、市民の間には見知らぬ他国に対する関心が高まりつつあった。そこへタイミング良く、いながらにして京までの東海道中を楽しめる錦絵が出現したのだから、人気を呼んだのも当然である。北斎のやや堅い高圧的な作風と比べて、いかにも日本人好みで叙情的であり、大衆の心に訴えるものがあった。
 これ以来風景画は、美人画、役者絵と並ぶ浮世絵版画の一部門として確立されたのである。
 広重は江戸の名所や東海道ものを中心に、各地の風景を描いているが、晩年の「名所江戸百景」のシリーズは、ゴッホに油絵で模写されるなど、ヨーロッパの画家たちにも大きな影響を与えている。
 安政5年(1858)当時江戸で大流行をみせたコレラにかかり62歳で亡くなった。死の前に「死んでゆく地獄の沙汰はともかくも 後の始末は金次第なれ」の句を残し、江戸っ子らしい最後であった。
 「六十余州名所図会」は嘉永6年(1853)7月から安政3年(1856)3月にかけて発表された揃物で、全部で69図となっている。全図竪判の風景画で、福井を描いたものは「越前 敦賀気比ノ松原」と「若狭 漁船鰈網」の二図である。
 この気比の松原は嘉永6年9月に刊行されたものであり、波静かな敦賀湾と松原海岸、湾内に浮かぶ帆船の姿などを描いている。中央の山並みは敦賀半島であろう。上空から見下ろすような構図だが、広重にしてはやや単調である。
 しかし、海と空のぼかしや、色彩には広重版画独特の技巧を見せ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。広重に限らず福井を描いた浮世絵版画は数少なく、貴重な資料でもある。このように全国の名所を描いているが、広重が実際に福井へ来たわけではなく、種本を参考にしたものである。